性善説と性悪説というものがありますね。
どっちを支持するかで議論になることもありますが、まあ証明のしようがないもので結論の出ない楽しいディベートバトルで終わることでしょう。
コバヤシ的にはあんまり意味のない議論だな〜と思っちゃったりします。
議論すること自体は賛成です。頭を使って理論をこねくり回すのは思考のトレーニングにもなりますし。単純に口ゲンカを横で見てるのは楽しいです。
なんで意味がないかというと、結局どっちも同じことを言っていると思うからです。
まずそれぞれの主張を見てみましょう。
性善説:孟子くんの主張
「人は善いことを行うという本性を先天的に持っている。悪事をするのはその本性を毒されたり壊されたりするからだ。」
ふむふむ。つまり人間は生まれたままの状態は善い人で、外から悪影響を受けることで悪いことをするようになるということですね。
性悪説:荀子くんの主張
「人はもともと利己的な本性を持っている。後から学ぶことで道徳や善行を手に入れるのだ。」
なるほど。こちらは人間は生まれた時から悪ですが、教育や学習で善い人になれるというわけですね。
焦点は生まれた時
それぞれの話を一方的に聞くと、どっちも正しいような気がしてしまいます。
ただ生まれたばっかりの赤ん坊に聞いても、オギャーと泣くだけで答えはくれそうにありません。
では、オオカミに育てられた少年はどうでしょうか。これなら、世知辛い社会の毒にも冒されていないし、人格ある年長者の教育も受けていません。
食べたい時に食べ、寝たい時に寝る。しかし、金のために人を騙したりもしない。
性善説の視点から見ると、悪に染まっていないから善となるのでしょう。
性悪説の視点から見ると、善を学んでいないから悪となるのでしょう。
ミもフタもない言い方をすれば、ナチュラルな野生状態が好きか嫌いかという話ではないでしょうか?
オオカミに育てられた野生児を、無垢で清らかと見るか、野蛮で不潔と見るかの違いです。表現の仕方は真逆ですが、客観的に見ればどっちも同じ「野生児」という状態をさしています。
そして、後天的に反対の性質が身についていくというのは、そりゃなんだってそうですよ。
不良に囲まれればヤンキーにもなるし、学習院にでも入ればいい子になるでしょう。
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まとめ?
すいません、最後はついおおざっぱな論調になりました。
そもそも、善と悪なんて見る立場によって変わりますしね。
「ぼくの立場なら、ぼくが正しい。でも、君の立場なら、君が正しい。」と、ボブ・ディランが言ってました。
ディランと孟子と荀子の三人でニコ生とかで対談して欲しいですね。
このブログでも機会があれば善と悪そのものをテーマに語ってみたいと思います。
最後に、この記事の仮説から考察するに…
性善説の孟子はノラ犬が好き、性悪説の荀子はノラ犬が嫌いだったに違いない。
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